本「ヒトの壁」を読みました

ごきげんよう

養老孟司さんの本「ヒトの壁」を読みました。

壁シリーズです。

シリーズ一作目「バカの壁」は、今も増刷されており、ロングセラーとなっているようですが、あれから18年ぶりの発刊とのことです。

養老先生の本は、少し前に「養老先生、病院へ行く」を読み、内容が分かりやすかったので、その気持ちのままこの本を読み始めました。
「なるほど、、、なるほど、、、、」と読み進めていくのですが、「・・・」となるところもあり、結局何が言いたいのかな、、、、と止まってしまいます。

本文中に「理解しないが納得する」
というところがあり、「長らく考えているうちに、よく理解していないのだが、それでいいのだと結論を納得してしまうこともある。」と書かれていました。
私は、考えることが好きなので、こういうことかな、ああいうことかなと考えている時が楽しい。
でも、考えても結果的に理解しないこともあり、そういうことは往々にして納得して終わっていると思います。
この本でも同じで、確かに、「理解しないが納得する」というのはよく分かり、その通りと思いました。

それでも、興味が湧いてきて、放り出さずに読み進めました。
それは、なぜかなと思ったのですが、養老先生は常に考えているんです。
この本は、考える過程が書かれている。そうすると、こちらもいっしょに考え始めて、
私なら、、、どうなのかな、、、と。
考えるきっかけをくれる。
そこに魅力を感じているのかなと思いました。

今回の「ヒトの壁」は、
2020年5月以降に新聞や雑誌に寄稿されたものを集めて加筆修正されたものです。
コロナ、ワクチン、五輪、そしてまる(亡くなった飼い猫)を通して、いろいろ考えさせられたとのことで、まだまだ考えるべき「壁」はあるようです。

養老孟司さんについて:
1937年(昭和12年)生まれ。
東京大学医学部卒業後、解剖学教室へ。
現在、東京大学名誉教授。
著書多数。

[「ヒトの壁」の目次]
1 人生は不要不急か
2 新しい宗教が生まれる
3 ヒトはAIに似てきている
4 人生とはそんなもの
5 自殺する人とどう接するか
6 なせばなる日本
7 コロナ下の日常
8 ヒト、猫を飼う

1 人生は不要不急か
不要不急という言葉から、人生とか 生きることについて書いています。

私

不要不急=どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと

「こうした状況(学生時代)をいま思えば、要するに私は社会的に未成熟だったのである。
自立して世間に出ていく。そういう当たり前の自信が欠けていた。」(17ページ)

「自分の仕事は、基本的に不要不急ではないか。
ともあれその疑問は、たえず付きまとっていた。」(20ページ)

医学部を卒業し、解剖学教室助手として採用されたころは、大学紛争の時代。
ヘルメットにゲバ棒の学生たちに、“お前の仕事なんか、要するに不要不急だろ”、と実力行使されたそうです。その時から不要不急に敏感になったと書いてあります。
養老先生は、社会人になった頃から頭の中に不要不急があり、解剖学の意味について考え、そのことについて仲間に聞いても“それは哲学でしょ” と言われ、すべては自分で考えるしかないんだと気が付いたそうです。この時から考える人生が始まったようです。

私も考えることが好きですが、その習慣?、その癖?、その性格?、は何かきっかけがあったのかな、いつの頃まで遡るのだろう。考えてみたいと思いました。

「ここでコロナの問題に戻ろう。ウイルスにも不要不急はあるのか。」(21ページ)

直近のコロナ問題からウイルスが登場しました。
ウイルスの大きさでヒトを見てみたら、などいろいろと考えたことを書いています。
科学は専門化し、学者は同じ目線でヒトを見ないというか、見えないと言います。
専門家会議でも集まった人たちの目線は同じなのだろうかと。
確かに、専門家会議で話されたことがニュースで紹介されますが、リーダーシップを感じることはなく、不安な私の気持ちを和らげてもらえたことは少なかったと思います。
それは、専門家会議が現状を分析して、今何をすべきなのか、少し先を見据えて何を準備したらよいのかなど、いろいろとアドバイスしてくれるところなのだと勝手に思っていたのは私の方で、専門家会議のあり方を理解していなかっただけなのかなと思いました。
養老先生は、面白いことを考えます。

「しかし、人生は本来、不要不急ではないか。ついそう考えてしまう。
老いるとはそういうことかもしれない。」(23ページ)

「生きるとはどういうことか、生きる価値はどこにあるか。これは哲学でも思想でもない。
まさに具体的な自分の生き方である。」(40ページ)

昨年、仕事から離れて生活は大きく変わろうとしていました。
それと同時期にコロナ禍でした。
本来なら外出好きのおばさんになっていたのかもしれませんが、現状は家にばかりいるインドア派おばさんになりました。 これは、自分の意思だったのか、コロナ禍の影響なのか分かりません。

「人生は本来、不要不急ではないか。老いるとはそういうことかもしれない」と養老先生は言われています。
仕事をしていた時は、社会に対する存在価値がはっきりしていましたが、仕事をしていない今、存在価値は何だろうと考えてしまいます。
社会に対してだけに価値が存在するわけではありませんので、家族だったり、その周りの人だったり、対象を変えて考えてみたら見えてくるではないかと思いました。

そもそも、価値を考える必要があるのか、養老先生が言われるように具体的な自分の生き方ですから、楽しく生きる、それでいいという考えもあるかもしれません。
でも、私は、考えたいです。

「人を相手にすると疲れる」
「今は人間関係ばかりで、相手の顔色をうかがい過ぎていないか。たかがヒトの分際で調和をはかろうとしすぎていないか。」(48ページ)

「今は人間関係ばかりで、人ばかりを相手にしていると疲れてくるので、猫の『まる』なのである」、ということです。
『まる』については、「8 ヒト、ネコを飼う」のところに書かれています。

私も人を相手にすると疲れてしまう性格です。
私には猫はいません。
私には何があるのかなと思いますが、今はこれと言えるものは分かりません。
これからの考える課題のひとつにしたいと思います。

「7 コロナ下の日常」のところに、文化と癒しについて書かれています。
文化についても、今後、考えていきたいと思うものです。

3 ヒトはAIに似てきている
「解釈」と「理解」の違いがたくさん登場します。
説明の仕方が面白いです。
なるほどと思うことばかりですが、そのことを人には説明できそうにありません。
これは、たぶん、「理解しないが納得している」ということだと思います。
気になった文章を記します。

「ここで前提としておきたいのが、「解釈」と「理解」である。同じことではないかと思うかもしれないが、別物である。ああ、そうだったのか、と、「理解」は向こうからやってくるが、「解釈」はもともとこちらの都合である。こちらが勝手に解釈する。この意味で理解というのは感覚系に近く、解釈はといえば、運動系に近い。理解は感覚の延長であり、解釈は運動の延長である。」(71ページ)

「哲学には解釈学という分野があるが、理解学はない。」(73ページ)

「文章でいうなら、理解は相手の書いている内容に素直に従う解釈である。それを自分の都合で読んでしまうのは勝手な解釈である。それをする人を独断的と言う。」(73ページ)

「ここでうっかり「意味」ということばを持ち込んでしまった。
「意味」とは何だろうか。意味の意味を問うことに意味はない。意味は先行的に理解されている言葉の典型であろう。われわれはある時、卒然として意味の意味を理解し、その理解が意味の意味になる。」(77ページ)

気になった文章を書き出してみましたが、これがすべてではありません。
まだまだ、気になった文章はあるのですが、正直、頭の中を整理できませんでした。
なんでこんなにまとめづらい本と向き合っているのだろうと思うのですが、養老先生は、失礼ではありますが興味ある方でして、考えていることなどに触れたいと思ってしまうのです。
「理解しないが納得する」とか、「理解」と「解釈」の違いとか、「意味」とは何だろうとか、「文化とは癒し」とか、なんか好きなんですよね。

84歳の養老先生もまだまだ考えることがあるようですが、
私も考えることはたくさんあるなあと思ったのでした。

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