小樽 母校の稲穂小学校

ごきげんよう

東京都知事や運輸大臣などを務め、芥川賞作家としても知られる石原慎太郎さんが、2月1日、亡くなりました。89歳でした。

小樽のネット、小樽ジャーナルには、次の記事が載っていました。

小樽にゆかりの深い作家、石原慎太郎氏が、2月1日(火)89歳で逝去された。
同氏は、1932(昭和7)年に兵庫県神戸市に生まれ、1934(昭和9)年に弟・裕次郎氏が誕生。父親の転勤で1936(昭和11)年に小樽へ。現小樽藤幼稚園、稲穂小学校へ通う。1943(昭和18)年に神奈川県逗子市に転居した。
作家・俳優・脚本家・監督を経て、1987(昭和62)年に運輸大臣となり、1999(昭和11)年に都知事、2012(平成24)年に衆議院議員として国政復帰。2014(平成26)年に82歳で政界を引退していた。
(小樽ジャーナル より)

石原慎太郎さんは父親の石原潔さんの転勤(海運会社山下汽船)で3歳から9歳までの6年間小樽に住んでいて、小学校は稲穂小学校へ通っていたのですが、このことは小樽では有名なことです。
そして、その小学校は私も通っていた小学校なのです。

その稲穂小学校ですが、
明治28年(1895年)に稲穂尋常高等小学校として開校しました。その後、学校の名前を稲穂尋常小学校、稲穂国民学校とかえ、昭和22年(1947年)に現在の稲穂小学校となりました。
小学校は小樽駅から徒歩5分の小樽の中心にあり、私が小学校一年生に入学する時にちょうど新校舎でした。円型のモダンな校舎は評判だったようです。
また、もっとも早くトタンぶきの屋根を取り付けたということと、暖房がストーブではなく、ボイラー暖房であったことも話題になったようです。木造の校舎が多い中で、鉄筋でボイラー暖房ですから、冬も寒さ知らずで暖かい学校でした。
校舎の形は全体が円型ということではなく、中央が円型でそこを中心に両側に“ヘ”の字型に教室がありました。
円型の部分は二階が体育館で、一階は確か視聴覚室、給食室などがあったと思います。教室は横に真っすぐ続いているのではなく、だんだんにつながっていました。そのため、教室の窓は2か所の方向にあり、太陽の光が授業中ずっと差し込んでいました。教室の廊下側には三角のスペースがあり、そこにコートをかけたり、物を置いたりしていました。
一学年4クラスで一階は1年生と2年生。二階は3年生と4年生。三階は5年生と6年生の三階建てでした。両側教室の中央に職員室があり、その上の階に確か理科室、音楽室があったような、、、。

正面出入口のところに「実るほど頭を垂れる稲穂かな」(みのるほどこうべをたれるいなほかな)という石碑がありました。(少しうる覚えですが、もしかしたら次に建て換えられた校舎の時かも)
稲穂小学校のホームページを見ると、今の校舎には「実ほど頭のさがる稲穂かな」と掲げられていました。
これは、「学問や技能が深まると他人に対してますます謙虚になることのたとえ」で、そういう子供に育ってほしいという意味でしょう。

小学校には「二宮金次郎」の像があると言われますが、稲穂小学校にも構内の端っこのフェンス側のところにありました。見た記憶がありますのであったと思います。

小樽の情報誌に稲穂小学校のアカシアの木のことが書かれていました。
3本の大きなアカシアの木で、私の通った校舎の後の新校舎が経つときに関係者の強い要望で残されたということです。私が通っていた時にもあったはずなのですが、記憶がありません。校舎の外にある木でしたし、通学時に私はその木の側を通らず、ただの街路樹としか思っていなかったと思います。

私が在学中に70周年の記念行事が行われましたが、2015年には120周年を迎えています。
稲穂小学校は今もあの場所に建っています。

石原慎太郎さんと小樽の関わりについて、小樽ジャーナルから引用いたします。

< 小樽文学館へスケッチ等250点寄贈 石原慎太郎氏逝去  2022/2/1 >
小樽市立文学館(色内1)では、2017(平成29)年に石原慎太郎と裕次郎展を開催したところ、たまたま通りかかった四男の延啓氏が感銘を受け、当時の亀井志乃学芸員(現館長)に説明を受けた。
その話を父慎太郎氏に伝えところ、十代の混沌とした青春時代の様子を表現した、「十代のエスキース」と呼ばれる約250点ものスケッチと空想画が寄贈され、小樽市から篤志者表彰を受けた。
2019(令和元)年5月25日(土)〜6月30日(日)に、同作品を紹介する企画展が開催され、25日(火)には講演会のために来樽し、同館1階の多目的ギャラリーで「文学とその時代」について語り、約150名が参加した。
その時、同氏から亀井学芸員に、「絵の展示は描いた頃の自分に出会ったようで、これは人生の奇跡。晴れがましい展示会となり、第2のふるさとで取り上げてもらい心から感謝する」と話し、伊藤整との出会いについても語り、和やかな雰囲気で進行された。

空港までの帰路、亀井氏も同行して小樽天狗山に立ち寄るなど、思い出の小樽を楽しんでいたという。
亀井館長は、「文芸誌の寄稿なども最近はなく、御加減が悪いのかと心配していたところだったのでびっくりもしたが、悪かったのだと思った。寄贈の作品は、若かった頃、心の中の情熱を描いた石原さんのことが思い出される。3点常設していてやっぱりご縁があり良かったと思った。

今月中旬過ぎには、大がかりではないがコーナーを設けて、石原さんを紹介したいと思う。まだ、直接ご存じの方もいらっしゃると思うので、いらしていただければと思う。
講演会でお会いした時に、ぜひまた小樽に来たいとおっしゃっていたので、また小樽の町をゆっくりと歩いてもらいたかった」と、当時を振り返っていた。

迫俊哉市長は、「小樽市を愛してくださった石原慎太郎様の訃報に接し、大変残念 でなりません。
青年期に描かれた多数のスケッチ類を小樽市へ御寄贈いただき、 市立文学館で特別展を開催した際、お会いしてお話させていただい たことが今でも鮮明に思い出されます。
心よりの御冥福をお祈り申し上げます」と、コメントを発表した。
(小樽ジャーナル より)

追記として、小樽港マリーナのところにあった「石原裕次郎記念館」はその縁で1991年に開館されましたが、施設老朽化などのために2017年8月に閉館してしまいました。

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