第一回ポートフェスティバル実行委員長(私の兄)よりポートフェスティバルの原稿が届きました。
この原稿は、ある時、複数人の人でポートフェスティバルのことを書いて、本にする企画があったのですが実現しなかったそうです。 小樽のお祭りでした「ポート・フェスティバル イン オタル」は私物語としては外すことができないものなので思い出話を書きましたが、 こちらの原稿も、今ここに公開しましょう。
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1978年 これっきり これっきり
ポートフェスティバル 私的ノート
始まり
始まりはやはり「ブルースこれっきり」だと思う。
1975年小樽にもどって来て勤めた会社「内外設備機工」で知り合った、草野治、大谷勝敏たち、また「とーてむ」(注1)、「いゑい」(注2)の飲み友達を中心につくったブルース好きのグループが「ブルースこれっきり」。ブルースといっても淡谷のり子ではありません、アメリカは南部の黒人たちから始まった音楽です。
なにか”志”があってということではなく、飲んだ勢いで出来たもの。ただ、「ブルースこれっきり」でお金が貯まったらテキサスはヒューストンにいる「ライトニン・ホプキンス」(注3)に電話しようというのがみんなの叶わなかった夢だった。「これっきり」という名前は当時ヒットしていた山口百恵の歌「横須賀ストーリー」からとったものだ。勿論わかりますよね、歌詞の「これっきり、これっきり、もーこれっきりーですか」からだ。いつまで続けられるかなんてわからないので、一回一回を「これっきり」と言いながら、思いながらやって行こうとの趣旨だった。それでも解散することもなく、‘09年、’10年とブルースライブを主催し、現在もまだ続いている。また、これっきりの活動の中で多くのお店と親しくなることができた。レコードコンサートをやらせてもらった『JAZZ喫茶ニューポート』、フォーク好きの若者達によって行われていた「待ちこがれコンサート」をやっていた『メリーゴーランド』、音楽居酒屋でフォークのライブハウスでもある『一匹長屋』、ソフトなJAZZ喫茶で詩の朗読会などもやっていた『夢可詩意来』、国際街にあった小さいカウンターだけの店『早起き鳥』等だ。メンバーとは、ほとんど毎日のように会って飲んでいたのに、例会は静屋通りの「叫児楼」地下で月1回やっていた。
「いま!!東松照明の世界・小樽展」(1981年開催)で作られた小雑誌「私は花札なら ぼうずが好きだ」に小樽で活動しているグループ紹介で「ブルースこれっきり」も載っている。原稿は私が書いたものだ。
・ブルースこれっきり
酒無しで居られない飲んべえ集団が、なぜか全員ブルース愛好者。総勢11名。結成以来、はや6年。最初は全員独身も、今や半数は女房、子持ちのブルース生活。山口百恵が引退しても、我々は断固ブルースを支持し抜くぞ。
酒と祭りとブルースと、その名も、ブルースこれっきり
連絡先が ブルース・スナック「風街」となっています。
「風街」もいまはなくなってしまった。同じ場所には現在「ですぺら」がある。
総勢11名と書いていますが、えっーと、木ノ内洋二、草野治、山田豊、神代順平、大谷勝敏、広瀬一郎、岡部唯彦、富岡尚司、そして渡邊眞一郎。あとふたりは誰だったっけ、9名しか思い出せない。沢田はもう少しあとからの会員だったはずだし。はじめの頃は会費を集めていたが、規則も何もないルーズな会だったからいつのまにかそれもなくなり、後には、自分自身が「これっきり」のメンバーと思えば、その人もメンバーという具合だった。
具体的な活動を補足してみると、あお焼きコピーのミニコミを3号だし、2回のレコードコンサートをジャズ喫茶「ニューポート」でやり、ブルースのコンサートは数しれずやりました。小樽のバンドは勿論札幌の「スカイドック・ブルース・バンド」「ベイカーショップ・ブギ」「シカゴブレイクダウン」「松竹谷清」などなど、会場は花園4丁目にあった『ブラジル』がだいたいメイン会場だった。
メンバーはそのあと「ビート・オン・ザ・ブーン」や「ポートフェスティバル」のスタッフになっていった。
ライブをやっているうちに、野外コンサートをやりたいという声が上がり、単純にすぐ行動に移すのが「ブルースこれっきり」。具体的に動きはじめたときに、手宮で喫茶店「メリーゴーランド」をやっていた山口保氏から「運河を守る会でも野外コンサートを企画しているので一緒にやらない」と申し入れがあり、共同でやることにした。
1978年の春まだ早い時期、これが第一回のポート・フェスティバルの始まりの始まりだ。
(注1)稲穂2丁目にあったが火事のため花園町に移転。しかし今は閉店している。
当時、ミニコミに載っていた広告には「ROCK&POPS プログレッシグ居酒屋 とーてむ」
となっている。
(注2)旧花園消防署の裏小路にあった。店主の竹内知志さんはその後嵐山通りに「ちん呆」を
開店させたあとカナダに移住した。
(注3)もっともブルースっぽいブルースを歌いつづけていたテキサス生まれの巨人。
1912年に生まれ故郷に近いヒューストンの黒人街で生涯をすごす。
1978年の1月、札幌市民会館にやってきた、勿論みんなで行きダーティな
ブルースの魅力にノックダウン。
その後は堺町にあった「メリーズ・フィッシュ・マーケット」で集まりをもち、具体案を決めていった。タイトル、ポスター、チラシ等。
そのときのメンバーは「小樽運河を守る会」会員、「叫児楼」のお客さん、「ブルースこれっきり」周辺の人たちが中心だった。その中でも北大の3名、石塚雅明、柳田良造、森下満がいなければ、あんなにスムーズに準備は進まなかったと思う。
「メリーズ・フィッシュ・マーケット」。
いまはもうなくなってしまった。「メリーズ」とみんなに呼ばれていたライブハウスは1977年クリスマスにオープンした。堺町6の5、現在の丸安商事堺町店。3階建て200平方メートル、一階がライブハウス、二階は貸しスタジオ、三階がシルクの印刷工房と小樽のミニコミ誌「雑歩(ざっぷ)(注4)」の編集室になっていた。
当時の新聞記事に「昨年の潮まつり野外フェスティバルで市内12バンドが集まったんです。みんな練習と発表の場がなく悩んでいた。何でもできる音楽の館があればいいなあ。」とメリーズをつくるきっかけが、また場所を堺町にしたことには「たまたま見つけた石造倉庫を音楽仲間みんなで改造した」と書かれている。たぶん佐々木恒治氏が話したのだろう。
振り返って考えると、佐々木恒治氏は小樽の「先達」ではないだろうか。
ふらっと小樽にきて住みつき、佐々木氏を訪ねてきた山口保氏が小樽に住みつき、「叫児楼」を中心にして「雑歩」を発行し、北方舞踏派の黒子役になり、「いゑい」を造り、「メリーズ・フィッシュ・マーケット」を造り、その後「丸井」の再開発をまとめ、・・・・批判もあるだろうが常に一歩先を走っていた。また、当時佐々木氏が住んでいた富岡町の住宅はまさに梁山泊であった、音楽家がいて、詩人がいて、小説家がいて、画家がいて、版画家がいて野心まんまんの若者達が常に明日を語っていた。
メリーズは前に「いゑい」をみんなの技術を活かし手造りで完成させた経験からまたやることにしたのだった。
それと、今回はもう一人「助っ人」が参加してくれた。私の現場で管工事の下請けとして働いていた「安さん」(本名が安野氏)、私が仕事の合間にメリーズの計画を話したら、「どうせ、素人ばかりなんだろう、おれがやってやるから」と現場監督をかって出て、札幌に自宅があったにもかかわらず、完成までメリーズに泊まり込んで作業をしてくれた。いまの言葉でいえば半分ボランティアということになる。
またどこから見つけてくるのか、ホールで必要な大型の石油ストーブ、テーブルや椅子、厨房のシンクや備品などを予算の枠内で探してきてくれた。
(注4)雑歩(ざっぷ)OTARU TOWN INFORMATION MAGAZINE
創刊準備号=零号は1976年11月頃の発行で、最終的には5号まで出ている。
1977年に出た4号(ビート・オン・ザ・ブーン特集)が手元にあったのでデータを書いてみると、発行所はサハリン商会 花園2の11、定価は100えんとなっている。
スタッフとして、志佐公道、野口よしお、佐藤のりひこ、斉藤淳、小田英津子、安川くん、菅原のりひこ、佐藤じゅん、佐々木(ふたり)と書いている。
77年のビート・オン・ザ・ブーンは7月29日に潮祭りの特設ステージで行われた。演奏時間はFOLKが16時~19時 ROCKは20時半~22時半だった。
ポート・フェスティバル実行委員会を立ち上げ情宣、企画、事務、財政等の役割を決めていった。
実行委員長 渡邊眞一郎
副委員長 黒川幸博、山田章夫
事務局 佐々木恒治(事務局長)、滝沢裕(次長)佐藤純、細谷美也子
渉外 ◎佐々木興次郎、渡邊眞一郎
経理 ◎石塚雅明、白沢恵子
書記 黒川幸博、早坂
企画 ◎北村哲男 企画ごとの任務分担は
・水上 ◎木原(北大)、鳥畑
・ステージ ◎松橋敏彦、岡部唯彦
・陸上 山口保
・倉庫 ◎富沢、はびた、北大
施設 ◎大谷勝敏、広瀬一郎、笠井実
各大学(北大、小樽短大、薬科大)の交渉 岡部唯彦
◎は責任者
これは手元の残っていたメモに書いてあった組織表だ。実際はもっと多くの人たちに助けられれていた。石塚雅明が経理とは、多分いちばん見た目の信頼度・信用度が高かったからではないだろうか。ただ実務は白沢恵子がほとんどやってくれていた。
予算は130万円。シンボルマークをシルクプリントしたTシャツとタオルを販売することで経費を賄うことにした。
開催前の5月に「月刊おたる」が取材をし、7月号の同誌「ここに泉あり」のページに会議中の実行委員メンバーの写真が掲載された。写真には実行委員23名が写っている。最初に計画が立ち上がったときの漠然とした不安の大きさを振り返って思うと、「ある意志」を共有していた、写真に写っている実行委員全員の名前を書いてこの原稿をおしまいにしてもいいくらいだ。
実行委員のひとりで遠く美唄から連日のように小樽に駆けつけていた、駒木定正が「北方文芸ー特集 小樽運河」79年5月号で当時の心情について次のように書いている。
「祭り当日その日まで、実行委員のだれ一人として、十万人もの人々が集い、小樽運河問題に再び鮮烈な炎をともすセンセーショナルな祭りになるとは想像していなかったのである。
むしろ、祭りは実行委員とその内輪の人々が細々と集い、市民からは冷たい視線と罵倒が浴びせられ、さらに、莫大な赤字を抱え込むことになるのではと危惧していたのである。」
始まるまでの実行委員全員の気持ちはまさにこのようなものだったと思う。
それでも、動きはじめると、いろいろな人たちとの出会いがありその中でアイデアもでてきた。当時ポート・フェスティバル実行委員会といってもまったく誰にも知られていない。道新の小樽支局にいて、私たちの活動に理解を示してくれた記者の川島氏から、「オタモイの育成院で冬囲いの始末の人手がなくて困っている、実行委員会で手伝いにいけば記事に出来るからやらないか」と申し出があり、すぐに日程をきめ、5月28日に作業に行った。勿論、写真入りで記事になり、ポート・フェスティバルの宣伝におおいになった。
また、「フェスティバルの資金集めのフリーマーケットに出す商品を集めています」と記事にしてもらい2軒電話があり、私がその方々の自宅まで品物をとりにいった。確かおひとりは幸町かオタモイだったと思う。当時、お礼の返事を出すこともなかったのだが、今でもおふたりには本当に感謝している。
ありがとうございました。
フェスティバルに保険をかけようということで、相談に行き会ったのが大橋一弘氏だった。親切にいろいろなことを教えてもらい、保険をかけることにした。
古ぼけたポスターから
その時のポスターが少々すすけてくたびれてはいるが、手元に一枚だけ残っている。
タイトルは 『PORT FESTIVAL IN OTARU』
その右下にちょっと小さく
7/8 PM 3:00~ 小樽港
9 AM 10:00~第3埠頭付近 とある。
主催はポートフェスティバル実行委員会。
協賛は小樽ヨット愛好者有志。
広告は、大きく3社、「藪半」、「小樽専門店会」、「叫児楼」とあり、もうひと枠に
「岩崎セーターグループ、フォーワールド(サンビルプラザ2F)、ワールドボウエキ(小樽国際ホテル2F)、プライスポケット(静屋通り)」の4社がのっている。
第1回のテーマとした、「手造りの文化・・水辺・・我街小樽」(手造りの文化、わが街、水辺の祭りと書くこともあった。)がポスターに書かれていたと思い込んでいたのだが、手元にあるポスターにはない。私の記憶違いか、別のヴァージョンがあったのかど、今はもうさだかではない。
1978年にはどんなことがあったのか
第一回のポートフェスティバルがひらかれた1978年はどんな年だったのか、その当時を思い出すために、小樽でどのような出来事があったのか調べてみた。
小樽市のホームページ「小樽市のあゆみ」には、
・プラスチックジャンプ台(潮見台記念シャンツェ)。
・第一回ポートフェスティバル開催。
・市立小樽文学館(分庁舎)開館。
・公設水産物地方卸売市場完成。
おおっ、ちゃんと載っている。でもウインターフェスティバルは三年前に載っているのにサマーフェスティバルの記載がない。
この時期に、自作の8mm映画上映のため小樽に立ち寄りそのままこの地に住むことになった白土勇は「幻視舎」というグループをつくり、アンダーグラウンド系の映画の上映活動を始めた
白土勇が書いた「幻視舎」の紹介文がある。
・幻視舎
アンダーグラウンドシネマから商業映画まで、一つの映画運動として、過去4年間上映してきました。今後も同じ様な方向性のもと、価値ある映画を提供します。もう一つの運動として、個人映画作家の育成は、過去2回の映画祭に見られる様に、作家の数も多くなり、映画の質も、年々向上しています。(小雑誌「私は花札なら ぼうずが好きだ」に白土が書いた幻視舎の紹介です。」
現在は苫小牧でシネマトーラスを運営している堀岡(旧姓、白土)勇氏が小樽時代主催していた映画上映サークル。長崎屋裏にあった稲穂倶楽部がメインの上映会場で、2階が畳敷の大広間そこで寝っころがって映画を見るという贅沢をやっていた。)
でも、当時一番お世話になったのは「北方舞踏派」だろう。
舞踏派は広報のため輪転機を持っていた。それに比べ私たちはビラやチラシの印刷をガリ版やシルク印刷でやっていたので、舞踏派の輪転機をビラやチラシの印刷によく使わせてもらった。運河研究講座の報告書の印刷を民宿「上昇」でやった時も舞踏派から輪転機を借り徹夜で印刷したこともあった。作業の途中で模造紙が足りなくなり深夜で買いに行くことも出来ず札幌まで取りに行ったことも思い出す。彼等は75年に山形の鶴岡から活動の場を小樽に移し、色内町の海猫屋やその後は魚藍館を拠点にして活動し大きな外からの風を小樽にふきこんでくれた。文化とも芸術とも違う今までの価値観では計れないパワフルな表現方法を見せてくれたと思っている。
また、77年から自由出品形式の展覧会「パタパタロール展」を運営していた江川光博とも知り合った。「おもちゃ箱」を引っ繰り返した様な展覧会をやりたいと江川は言っていた。年令、技術、力量等にこだわらない参加者の作品は従来の展覧会にはない弾力性と幅のあるとても楽しいものだった。
祭りの準備
開催のために配布した企画書は手書きで、字体からして私が書いたものだろう。
フェスティバルのおおまかな内容が書かれている。
『ここ数年、小樽では古い倉庫を改造した喫茶店をはじめ、舞踏派、ライブハウス等新しい小樽の文化の動きがでてきています。これらの文化の動きと昔からの小樽の伝統を合致させ港を中心に祭りを開いてみようと四月に実行委員会を発足させ準備を進めています。
「水辺で祭りを」と発想は単純でも「手造りの文化、わが街、水辺の祭り」のテーマにそってみんなで楽しめる祭りにしたいと計画しています。
メイン会場は北海製罐倉庫横の旧税関跡地の広場を使用し、フォーク、ロック等のコンサートを企画しています。地元のバンド以外にも有名歌手数人にも出演してもらいコンサートを盛り立てて行こうと思っています。
主会場から月見橋を渡って水上警察署までの市道には数多くの屋台(焼きソバ、わたあめ、おでん等)、おばけ屋敷、古物、古本市、おもちゃ屋、鮮魚、野菜の売店、市内有名小売店の出店、また各種競技大会(運河マラソン大会)、絵と写真の展示会を行うよう企画しています。運河沿いの道々小樽稲穂線(龍宮橋ー中央橋間)も(現在交渉中)市道同様各種の屋台等を出して祭りを盛り立てて行くつもりです。
予算としてはポート・フェスティバルのシンボルマークを刷りこんだタオル、Tシャツを製作し販売するほか、広く寄付を呼びかけそれらの金で賄うつもりです。
また実行委員会では祭りの益金の一部を市内の福祉団体への寄付(やまびこ会、音の出る信号機の設置)へあてる予定です。少しでも多くの益金を作りたいと思っておりますので市民のみなさんへの祭りの協力をお願いすると共に出店等を現在募集しておりますのでそちらの方への参加をお願いしたいと思います。
ポートフェスティバル実行委員会』
連絡先はポートフェスティバル実行委員会 稲穂2-17-17 叫児楼内
この企画書の内容通りに準備が進み、実際もこの通りに行われた。
具体的な準備のことは30数年前のこともあり、よく覚えていないが、開催前に私がしゃべったことが文章に残っている。
「この実行委員会は、4月に発足したばかりで委員も40名ほどおりますが、年令も18~30才くらいとまだ若いわけです。まあ、小樽で生れ育ったのや、UターンやJターンで来たのや小樽が好きで住んでいるのやら、中には小樽に惚れ込んで夕張や札幌から、毎週参加してくれるやらで皆てんでんばらばらの連中が集まった訳だが、皆一貫して言えるのが、港が好きで小樽が好きだという連中ばっかりなんですよ。そんな連中が冬にウィンターフェスティバルがあり、夏にはなぜ海の祭り港の祭りがないか、潮まつりがあるわけですがなぜか公園で行うせいか、港の祭りという実感がないんですね、そんなんで今回のフェスティバルを企画したわけなんですよ、ただ祭りをやって騒ぐだけというのではなく、せめて心に残り形に残るものとして、まあ全員一致で『やまびこ会』や『市の社会福祉団体』の基金にあてようと決めたわけなんですよ、そんなことから5月28日には育成院へ行って労働奉仕なんかして来ました。このフェスティバルの企画で一番困ったことは運営資金のことですが、まあ市民の方の協力をという方法をとったのですが、委員が全員で手刷りのタオルを持って回ったのですが、ただ協力と言っても訳のわからない団体が多いせいか、この実行委員会もその一団と思われたせいか資金が予定どうり集らなかったりで・・・・・とにかくこのフェスティバルは、第一回ということで市民に馴みがなくこれからが大変なのですが、今年はここまできたので、一人でも多くの市民と若者とでフェスティバルを成功させるためにも、市民の参加と御協力をお願いしたいと思います。」
運河保存のためのフェスティバルということは実行委員会では全員が確認していたが、それよりもまず「あくまでも港、運河で祭りをやりたい。」とアピールしてより多くの市民を集めようとしていた。
フェスティバルの内容
フェスティバルはおおまかに分けると4つの企画で行われた。
1.石造倉庫シアター 2.運河の上のはしけ 3.メインステージ
4.運河を囲んでの露店
それぞれの企画をちょっと詳しく見てみると、
1.石造倉庫シアター(前野商店麻袋工場の石造倉庫2階 色内2-3)
8日(土) 《 Batle of Jazz 》 北海学園大ジャズ研、北大ジャズ研
《 スペクタクルの為の試み 》 北方舞踏派+日野トリオ
《 Jazz Film Night 》 ニューポートジャズフェスティバル‘62
のフイルム上映
9日(日) 《 影絵 》 小樽女子短大「雪ン子」 OG
《 スライド上映 》 「小樽の史跡」 商大経済史研究会
《 OPEN TEATER 》 「鉄腕アトム」 「けんかえれじい」
《 落語 商大落研 》
《 幻視舎シネマテーク 10 》 「フィルム・シンジケート」特集
《 ジャズライブ 》 福居良トリオ
2.はしけ(水上ビアガーデンとフォークステージ)
8日(土) 市内高校(桜陽、商業、北照、双葉、工業)対抗フォークパレード
サタディナイト・フォーク 小樽有力フォーク歌手の出演
9日(日)勝抜きクイズ大会をはさんでフォークステージ
3.シーサイドライブ(メインステージ)
両日の出演者です。
手元に2種類のチラシがあり、少々出演者が違っているが、おおまかなタイムテーブルがのっているチラシのデータをもとに。
8日(土) ジェミニ、天下義博、鈴木良徳、矢野泰裕、ホイホイブラザーズ、
山口弘、下村実、熊谷仁志、ヒートウェイブ、ティップトップとビックマラーズ、
石田博一、ラム、中川五郎(東京)、古川壬生(青森)
9日(日) グリーンエコーズ(小樽商大)、タイムリミット、ホットオレンジ、
スパニッシュムーン、地震・雷・火事・おやじ、
ベーカー・ショップ・ブギ(札幌)、スカイドック・ブルース・バンド(札幌)、
藤森カツオ(札幌)、スターレス、ラビット、スーパーマン、
スーパーブロウダウン、ブラックウイドウ、オーバーナイトセンセイション、
山田オールディズバンド、日野明トリオ
なつかしい、とてもなつかしい。30年ぶりにみるバンドの名前もあった。
みんなもなつかしいでしょう、と書いてもわかる人はかぎられるかな。
プロのミュージシャンは中川五郎さんだけだ、前年に「ブルースこれっきり」が小樽のライブを主催した関係できてくれたのだ。ホテルをとる予算がなく、竹内知志の店「ちん呆」に泊まってもらった。
出演者の中で、いまも現役でやっているバンドもある。
スターレスは2009年11月28日に、
「スターレス『結成33年』ですが、それがなにか LIVE」をヲタル座でやった。
4.運河沿い露店の出店数は65店。
人出にかんしては、道新の記事で「2日間で10万人」とある。
終了後、露店の売り上げは約160万円。また、札幌の若手建築家でつくっている「北海道の環境を考える会」から20万円のカンパ、それにTシャツとタオルの売り上げから経費を差し引いたあとの黒字分16万を福祉団体に寄付をしている。
「やまびこ会」「育成院」「四ッ葉学園」に各4万円。札幌の「羊ヶ丘養護園」の子供36人を招待したバスのチャーター代4万円。
終了後の反応は
終了後、一番早く目にしたのは北海道新聞の卓上四季だった。
フェスティバルに関するところは以下のようだ。
道新 卓上四季 7月10日から
『こだわりのないヤングは常に思い切ったこともする。小樽の運河で開かれているポート・フェスティバルもその一つだろう。石造倉庫シアターで落語もジャズ映画もやってのけ、運河に浮かぶハシケ三隻では水上ビアガーデンを開き、フォーク歌合戦などをしている。大人が運河の価値いかんを論じあっている間に、こだわりのない実行力で、運河の歴史的価値だけでなく観光価値まで実証してしまうかのようだ。近ころの若者はなどと、口はばたきことは申すまじく候。』
7月11日の北海道新聞には当時の志村市長の反応ものっている。
『このポート・フェスティバルについて志村市長は十日、市議会で武田氏(共産)の質問に答えて「見ていないので、評価できない」と述べた。』
私にはめくるめく2日間だったという感想しか出てこない。
ただ、最後にメインステージで終了の挨拶をしたとき「また、来年もやります。」と言っことだけは憶えている。後片付けをしているときに川島氏がやってきて「最後にまた、来年もやります。と挨拶したことはとてもよかった。運動はまだまだ続くからね」と声をかけてくれた。
1980年6月15日に発行された、「読書・北海道」集団の地誌学シリーズ第4回に
夢の街造り実行委員会
運河を利用した街づくりー具体的な運動方針のなかでどう明確化
というタイトルでポート・フェスティバル後の状況を文章にした。
最後に書いておこう。
小樽は今、これからの小樽の発展の方向性を決めなければならない岐路にたっている。行政側の計画通り、運河を埋めたてバイパスを街の真ん中に走らせるのか、或いは運河を残し、できうる限りの再整備をし観光へ力をそそぐか。
小樽は札幌から電車で45分たらずの人口18万人の小都市である。歴史は古く北海道開拓の当初から発展してきた街であるが、戦後高度成長の波からはずれ発展することもなく静かに歴史を持った街として生きてきた。このような小樽にあって、街造りということを小樽に住むわれわれが考え始めたのはそんなに古いことではない。
1978年、積極的に自分たちの住む街のことを考えはじめた若者が第一回ポート・フェスティバルを港に隣接する運河沿いを会場に開催した。市民の多くから忘れられていた運河に数万人の人を集めるような祭りを企画、実行したことは、それまでの運河問題のある種膠着した状況に新しい展開を示し、祭りに参加した者に「街造り」という新しい方向性の自信をも与えた。
夢の街造り実行委員会(通称「夢街」)は第一回ポート・フェスティバル終了後にフェスティバルの実行委を再編し、より以上の運動が可能なグループとして発足した。運河を利用価値なしとして埋めようとしている行政側と、これから小樽の発展の柱にしようとする夢街では、対立点は最初からはっきりしている。
もともと「街造り」ということを改めて住民側から言い出さなければならないのは、行政側の視点が住民にないということではないだろうか。このような中にあって、住民として生活者の論理をどう具体的な街造り中に反映できるかを根本として「夢街」の運動はある。けれど、「夢街」自体は一つ運動方針で行動するよりも参加している、ひとりひとりがやりたいことをやる、そして言い出した者が責任をもってやり切るという形で行動してきた。道内数ヶ所で行なった小樽のバンドと地元のバンドのジョイント・コンサート。インフォメイション雑誌としての「ふえすた小樽」の発行。等々・・・
しかし、まだまだ自分たちが語る「夢街」のプランが、現実性をおびて住民の中で方針として一般化する所までは行かず、運河問題に無関心な者に対して、影響力がないのが現況である。「運河を利用した街造り」というポリシーを、どう具体的な運動の方針の中で明確化できるかが、今「夢の街造り実行委員会」が早急にとわれている課題である。
ー番外ー
<ウッドストックの影響>
1976年「ブルースこれっきり」の活動を始めたとき、メンバーの草野治とよく話題にしたことに映画「ウッドストック」(札幌公開は70年)で知ったウッドストック・フェスティバルのことがあった。正式にはウッドストック・ミュージック&アート・フェアは1969年8月15~17日にアメリカ東海岸、ニューヨーク郊外で開催されたそれまでにない大掛かりな野外コンサートで、現在世界中で行われている多くの大型野外音楽フェスティバルの原点となった催しである。最初はたしかに経済的利益優先のイベントでスタートだったが、出演者や参加者の多くが当時アメリカで広まっていた公民権運動やヒッピームーブメントの影響をうけていたため<愛と平和を掲げた無償のピースフルなフェスティバル>のイメージが定着した。
いまから振り返るとそれは①音楽を通じて自分の生き方を考えること、②音楽と時代の共有性、音楽を通じての個々の生活環境の違いをこえた共生意識をもつこと、となるかもしれない。
当時「ブルースこれっきり」で野外コンサートをやりたいとよく話していたがこれはウッドストック・フェスティバルの影響もあるだろう。
だからこそ、ポートフェスティバルの企画でまず考えたのが野外コンサートだった。
草野とのつき合いはその後アメリカ志向とは別な方向にむかっていく。
津軽から吹いてきた熱い風に魂を持っていかれたのだ。
ポートフェスティバのメインステージでライブをやった津軽からきた歌手「古川壬生」のレコードを小樽からだそうという計画だ。壬生との出会いもまた不思議なめぐり合わせだった。前年(1977年)に弘前から映像作家の井村徹が自作の映画「六道ー津軽冥界巡り篇」をもって小樽にやって来た。見たものみんながやられてしまった。特に草野が重症で津軽海峡を渡り弘前まで旅をし、そこで壬生に出会った。その後すぐに壬生と井村徹が小樽にやってきて、我々は初めて壬生の歌を聴いた。一夜にして津軽から来た風が我々を包み込んだ。草野は全道でのライブを企画し、その中で「エルフィンランド」の中島洋氏(シアターキノ代表と書いたほうがわかりますよね。)の言葉をきっかけにレコードを製作することになった。「グラスフィールドエッセンス」という名前のグループをつくり、多くの友人たちの協力を得て完成させることができた。12月24日クリスマス・イブに壬生がサンタクロースの格好をして草野と二人でレコードの予約をしてくれた人たちの店に配布して歩いた。レコードのタイトルは「壬生」。「地吹雪心径夢和讃」「乱調じょんがら節」「悲しみのアバ」「乱調佞武多節」「砂山まつり」「津軽念殺節」等々、歌のタイトルを見るとすこしは津軽の風を感じてもらえるだろうか。
ライナーノートの最後に草野が書いている。
『魂込めて作ったから
どこさ出しても恥(めご)さがねえ
そんなレコードを作ろうと秘かに思った。
四ヶ月の間、北からの円盤狼火を打ち上げるべく、多くの人間をまき込んで、僕たちは転がり続けている。僕らの力不足は、ありとあらゆる所に露呈し、時として沈黙を強いる程の力で襲って来るが、まだ立ってはいられる。』
草野とのつき合いの中で、漠然と考えていた未来の姿はウッドストックの精神を根底に、この星と生きていくための自然との共生によるエコロジカル生活、そしてその仕組を模索する姿勢を持つ社会体制だったと思う。
大友 さんの漫画の中にあったセリフを思い出す。
「あの頃は何でもやったし、やろうと思えば何でも出来ると思っていた。
30年前のことだが、つい昨日のように思い出す」
現在、美深で土とともに生きる生活をしている彼は、あのときの精神を今現在も持続して生きている。そして私はまるで土とは無縁の小樽のまん中で、あまりエコではない生活をし、たまにはブルースを聴きながら生きている。
2008年 渡邊眞一郎