本「老いる意味」を読みました。

ごきげんよう 

森村誠一さんの「老いる意味」を読みました。
本屋さんでは、よく売れている本の棚に置かれていました。
森村さんの作品だから手に取ったというより、「老いる」という言葉に私のアンテナが反応しました。
今年、4月に仕事を辞めてから日々の生活が変わりました。
それまでは、フル勤務で仕事中心の毎日で、家のこと、自分のことはその次になっていました。
それが、仕事がなくなった今、自分中心の毎日になりました。そんな日々の中で一番気になること、一番考えていることは、この先「老いる」しかない私の身体のことです。
何が書かれているのかなと興味津々で読みました。

[目次]
第一章 私の老人性うつ病との闘い
第二章 老人は、余生に寄り添う
第三章 老人は、死に寄り添う
第四章 老人は、健康に寄り添う
第五章 老人は、明日に向かって夢を見る

この本には、「老いる」とは、「老いる」から何をするのか、そしてどう生きていくのか、などが書かれているのですが、その内容は、
「同じ、同じ、私もそう思う」
「確かに、確かに。」と、私が日々思っていることや、
「なるほど、それはいいかも、真似しましょう」
「そうね、そうなのよ、私もそういうふうに考えていきたい」
と、思わず言ってしまうものばかりで、楽しく読みました。

読者の感想には、「高齢化社会を生きる高齢者に必要な考え方が網羅されていると思いました」「この本に出逢って、励みが出てきました」「老いを迎える入門書的感じ」とありましたが、本当にそうだなと思いました。
また、別な感想として、「人間の証明」や「野生の証明」などを読んでいた方からは、「森村さんが言う「老いる意味」を期待したが、普通のエッセイで拍子抜けだった」という感想もあり、私も少しそんな感じを受けました。

気になった内容と私の感想を下記に記します。

第二章 「老人は、余生に寄りそう」
寿命が延びた現代には、誰にでも余生がある。
言い換えれば、誰もが老後と向き合わなければならなくなっているということだ。
余生は、余った人生なのではない。
重要な「人生の課題」である。老いて余生に寄り添うことが大切である。
過去と未来をつなぐ最先端が現在である。
最先端にいることを意識したとき、問われるのは「過去を見るか、未来を見るか」である。その選択によって、現在の自分がもっとも若いのか、もっとも年老いているのかが分かれる。
自らの老いを意識した途端、「老い」という言葉に過敏になることもある。

私は、あまり「過去」を振り返ることがありません。よく、あの時に戻りたいとか、あの時からやり直したいとか言う人がいますが、私はそういうことがありませんでした。
私にとっての「過去」は、「未来」のための情報源で、いつも、「未来」の方を見て、「未来」に進むために生きてきました。
本には、「未来に目を向ければ、いまの自分がいちばん若いのである。まったく年齢には関係ない」と書いてありました。私は、人からいつも若いと言われます。電話の声も娘さんかと思いました、とよく言われます。若く見られるのは、精神年齢が低いからかなと思っていましたが、もしかしたら、「未来」を見ているからでしょうか。・・・そんなことないですね、やはり後者が正しいでしょう。

「未来」への道はひとつではないと思っています。自分の「未来」はどうなるのか、到達するところが分かっているわけではありません。 自分の運命は自分で作ることができるという言葉もありますし、希望も持てますが、分からない方向に進まなくてはならないわけで、ああでもない、こうでもないと、「未来」のための準備に力を注いで、考えすぎて、エネルギー使って、ストレス溜めているのが私の「現在」です。

老いを感じる身体の不調もありますが、「余生を充実させるためにできるだけ健康な心と身体を保っておきたい」「条件付き健康で良しとする」「何かで補えるならそれでいい」とも書いてありました。 私の「未来」(余生)は、条件付き健康を保ち、楽しい時間を過ごそうと思いました。

第三章 「老人は、死に寄り添う」
仕事の定年と人生の定年は違うものである。
仕事をやめても、生きていく緊張感を失ってはいけない。老いるのが早くなる。
定年後の自由を得たあとに限らず、人は誰でも「生きがい」か「居心地の良さ」のどちらかを求めているといえる。生きがいと居心地の良さの両立ができればいいのに、それは難しい。
六十代は「余生の年少組」にあたる。老人社会では、「下の立場」になるのを理解しておく必要がある。
七十代は「余生の年中組」。高齢者社会ではこの年代がいちばん力を持っている。失っていくものの多さが実感されてくる。体力、気力、記憶力、人脈などといったものがそうだ。そうした事実を受け止め、克服するのが七十代のテーマである。

六十代の私は、年少組です。死に寄り添う前に、スムーズに高齢者社会の一員になれるよう、注意する必要があるようです。そして、自由の中にも緊張感を忘れないことです。

第四章 「老人は、健康に寄り添う」
大病はいけないが、老いは病気と二人三脚のように歩んでいく。少しばかりの不健康に寄り添う方がいいのかもしれない。
月並みながら、私が以前から長く実践している健康法は散歩である。
筋肉などは年齢とともに退化していくので、ある程度食い止めるために最低限の運動を心がけておく。
一度限りの人生を全うするために、病気になるかは運次第、治るかどうかは医者次第などと考えるのではなく、すべて「自分次第」と考えなければならない。あきらめずに闘っていくしかない。

健康のために散歩をしていると書いてあり、“同じだ”っとうれしくなりました。「春夏秋冬それぞれで道の表情は違ってくる」とも書いてあり、ほんとにそうなのよねと思いましたし、散歩の時の感動を大切にしたいと思いました。
散歩を習慣にしているのも自分で動ける状態を維持することを意識しているからで、メンテナンスのような感覚だそうです。私の散歩も続けようと思いました。
眠りについても書いてあるのですが、私は眠れないことがなく、ベットに入り本を読み始めるとすぐ眠くなります。子守活字とでも言いましょうか。
また、自分の「便」は観察しようという内容が書かれているのですが、この本の中で一番共感を覚えた内容でした。具体的内容は、恥ずかしいのでここに書くことは控えますが、「そこまではしない」という内容もありますが、「そうなのよね」と何回言ったことでしょう。

第五章 老人は、明日に向かって夢を見る
第二のスタートは、それまでの人生をリセットするチャンスである。
老いを加速させるかは自分次第
歳をとればとるほど、自分から積極的に出会いの場に参加していくべきである。

「出会い」を大切にしたいということも書いてありました。「出会い」には、人、文化、場所、ペットがあり、「出会い」は未知との遭遇であると。時にはデートもよいし、自由な読書も楽しめる、誰かの役に立つこともいい。
第五章は、「出会い」によって未来の可能性は無限に広がるのだから、自分で終わりを決めつけない限り、楽しく生きていけると結んでいました。

本の感想としては、納得することとか、参考にすることとか、そういうことが多く書かれていて、自分のこれから老いていく人生の生き方に、大きな間違いはないかなと安堵を覚えました。
が、少し違和感が、ちょっと待ってくださいと。
森村さんは、失礼ながら88歳、私と20歳ほども違います。それを思うと私が今、「老いる」ことについて、「森村さんと同じこと考えている」なんて言っていてもいいのかな?
「老い」を考えることは大切なこととは思いますが、そんなに真剣でなくてもいいのではないか、まだ早いんじゃないのと。
実際は、しっかり衰えを感じている私ですから、早いに越したことはないと思うのですが、、、、。

60歳代の私が同じこと考えていていいのか。
老いる心配なんてまだいい~~。
もっとしっかりしろ。
今を楽しむこと考えろ~~。
と言う、私がいました。
私へのメッセージは、第五章かなと思います。

これからの老いのあり方ということで、森村さんの考え方を参考に、健康に寄り添って、
もっと、もっと、出会いを大切にして、人生を楽しみたいと思ったのでした。

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