水天宮には石川啄木の歌碑があります

ごきげんよう

水天宮には石川啄木の歌碑があります。

    かなしきは 小樽の町よ
   歌ふことなき 人々の
   声のあらさよ

大きな石に刻まれた歌碑は、昭和55年10月12日(1980年)に境内の入口の近くに建立されたものです。
この歌碑の歌を読んだ時、小樽の町は悲しい町で、人々は声を荒げて生活していると歌っていて、啄木にとって小樽の印象はよいものではなかったのかなと思いました。
だいぶ後になって、この歌の意味を知った時、へーっそうだったんだと驚きました。

石川啄木は、明治40年9月、小樽日報創立に招かれ仕事をしますが、ある事件があり4カ月ほどで退社、単身で釧路へ行ってしまいます。
この歌を歌った当時の小樽は、日露戦争後の北海道の経済の中心地として躍進しつつあり、その活気に満ちあふれているさまを歌ったそうです。啄木は小樽のエネルギッシュな空気に圧倒されたようです。小樽には姉が嫁いでおり、また、母、妻、長女も小樽に来て、家族四人で生活していたそうです。仕事があり、家族と生活出来る喜びもあったようです。
その住まいは公園通りにあったのですが、その場所は私も知っています。

小樽には小樽公園にも石川啄木の歌碑があります。

   こころよく
   我に はたらく仕事あれ
   それを仕遂げて
   死なむと思う

啄木の歌碑は公園通りを真っすぐのぼり、小樽公園の木立の中にある。その碑面に短歌選定までのエピソードが刻んである。昭和26年のこと、碑の歌を市民投票で決定すると、小樽啄木会で提案した。その結果最高点は「かなしき小樽の町よ・・・」であったが、この歌ではどうも将来にわたって抵抗があるとの疑問がでた。それよりも、同じく小樽で作られた「こころよく 我に・・・」が芸術的にすぐれているとして、こちらに決まったという。字体は啄木の直筆を模し、小樽在住の書家・宇野静山さん苦心の作である。
<小樽 坂と歴史の港町 朝日新聞小樽通信局編 より>

水天宮の歌碑が2005年に少し場所を変えましたとの記事をネットで見つけましたのでリンク先を載せておきます。

私は、石川啄木を熱く語るほどの思いが正直ないので、情報の紹介だけで終わらせていただきます。
あしからず。

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